Roots – foodexgroup Just another WordPress site Tue, 30 Jan 2024 07:35:58 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.6.2 屋号に秘められた、鮮魚への情熱と家族の絆 /roots/marutomi202401/ Tue, 30 Jan 2024 07:35:58 +0000 /?post_type=roots&p=1608

 

プロローグ

日本の魚文化を守るため、鮮魚にこだわり誕生した「丸冨水産」。

そのブランド背景には、挑戦と気づき、そして店舗を育む共通マインドがあった。

日本の水産業界の悲惨な現状を打破したいという信念。

こだわり抜いた鮮魚への想い。

店舗で受け継がれる「家族」の関係値。

魚を扱う店ならではの困難や苦悩と、一筋縄ではいかない経営をどうやって乗り越え、今に至るのか。

また、未来には何を描いているのか。

ブランドの重要な一端を担う、丸冨水産の軌跡を辿る。

 

屋号に込めた想い

丸冨看板

ラーメン屋「屯ちん」、大衆酒場「かぶら屋」と飲食業界で着実に成長を遂げていたfoodex groupは、新たな挑戦として「魚」の可能性に目を向けた。

かぶら屋での成功は、それまで捨てられていた豚モツのように見過ごされがちな食材の価値を再発見することから始まった。 この経験を経て、「魚」でも同じような状況が起きていると気づいたのだ。

日本全国で、味は全く落ちていないのにもかかわらず、規格外という理由だけでおいしい魚が大量に廃棄されている現実。サイズの大きすぎる魚が、加工のため無駄に端を切り落とされて使われるようなことも日常茶飯事だった。

この現状を打破するため、新しいブランドを立ち上げよう。そう考えた社長が、ふと思いだしたのは、幼少期の記憶。

社長の実家は鮮魚店だった。
父親は車で地域を周って、行商のような形で魚を売る毎日。

コツコツと続けていくうちに信頼を集め、地元の冠婚葬祭などの大きな行事でも自慢の魚を提供するようになった。

そんな父を家族総出で手伝うのが日課で、しばらくして父が病を患い働けなくなったあとも、皆で家業を支え続けた。

こうして大切に守り抜いた鮮魚店の屋号が、「丸冨」だったのだ。

会社はラーメン屋「屯ちん」としてスタートしたが、魚を中心に扱うブランドを作るのであれば、実家の想いをどうにか引き継げないか。そう考え、実家の「丸冨」という屋号を使った「丸冨水産」というブランド名に決めた。

この屋号には、実家の鮮魚店のように「おいしい魚をお客様に提供し、地域に愛される魚屋を目指す」という決意が込められているのだ。

 

地域の魚屋としてのスタート

丸冨の提灯

まずは、かつての下町、神田に1店舗目をオープンさせた。

この地は開発が進む中、鮮魚を扱うお店がほとんど存在しなかった。魚屋が少ない理由は、鮮度を落とさず提供するには、専門的な知識や技術が必須となるからである。

そこで、街の魚屋という役割も担うために、魚を買いに来ることもでき、お店の中で飲食もできる新たなスタイルでお店を始めた。

オープン当初お客様からの注目を特に集めたのが、100円という破格の値段で提供していたマグロの中落ち。お客様自身がスプーンで骨の周りの身を削って食べる斬新なスタイルだった。通常は廃棄する部分を利用し、送料のみで仕入れることができていたため、この価格での提供が可能になっていた。

こうして、新鮮な魚を安く提供する丸冨水産のスタイルが徐々に浸透した一方で、店頭販売の魚の売れ行きはいまいちだった。一人暮らしのサラリーマンが多い街だったからか、魚を買って帰り、家で料理して食べる習慣がなかったのだろう。

そこで思い切って魚の販売はやめ、店内での飲食のみに絞ることに決めた。これが今も続く丸冨のスタイルとなっているが、神田店には1つの不幸が訪れることになる。

近くのビルで火災が発生し、神田店の入っているビルにも被害がでたことで、営業ができなくなってしまったのだ。神田は丸冨の事業として強く思い入れのある場所。非常に悔やまれたが、撤退を余儀なくされてしまった。

 

鮮魚を扱う苦悩、
そして信念

丸冨食堂

丸冨水産は、池袋、西荻窪、目黒に店舗を構え、池袋では鮮魚を食堂スタイルで提供する「丸冨食堂」というブランドも展開している。

人気がある一方で、なかなか次の店舗展開に動けていない理由が、鮮魚を扱うハードルが非常に高いことである。工場で加工してから店舗に配送することも検討したが、なかなかうまくいかなかった。そこで今は各店舗の責任者が、その日の新鮮でおいしい魚を吟味して仕入れ、店で一から捌いて提供する方法を採用している。

また、単に技術が必要なだけでなく、アニサキス、食中毒など様々なリスクもある。寄生虫は機械でのチェックだけではなく、長年培われてきた経験や感覚も大切になってくる。そのため、しっかりとお店を任せられる人材が必要なのだ。

現状、非常に属人的な側面が強いため、その日取れた鮮魚を扱う飲食店はそこまで多くない。冷凍によって季節に限らず一年中食べられる刺身などもあるが、それは丸冨水産がやりたいこととは違う。

鮮魚にこだわり、お客様に安心安全でおいしい魚を届けることを最優先に考える。開業当時からブレない信念を胸に、私たちは魚と向き合っているのだ。

 

店舗で育む「家族」のような関係性

丸冨水産では、「教育」や「指導」という表現を基本的には使わない。強いて言い表すとすれば、「育む」といったイメージに近い。新しくスタッフが入ってきたときも、部下というよりは、弟や妹のような存在に近い感覚を持っているからだ。

私たちの事業の裏には、単なるビジネス以上の、店舗ごとに育まれた「家族」のような強い結びつきがある。経営を軌道に乗せることができたのは、この関係性を丁寧に築いてきたからこそなのだ。

鮮魚を扱う業態は、より品質に気を配らなければならないため、「人」の専門的な知識や技術によって成り立っている部分が大きい。

だからこそ、雇う・雇われるといった形式的な繋がりではいけない。まだ鮮魚店だった頃の「丸冨」がそうであったように、家族のように一致団結して乗り越えていかなければならないと、私たちは考えている。

長年にわたり店長を務めるスタッフにも、自然とこの想いが浸透している。今では「丸冨水産」というブランドに愛着を持ち、屯ちんでもかぶら屋でもなく丸冨で働けているからfoodex groupにいる、というスタッフもいるほどだ。

 

次なる一歩とは

丸冨水産の内装

系列ブランドのかぶら屋は、自己資金0円からの開業システムを整えている。今後の「丸冨水産」も、かぶら屋と同様に独立を支援する体制を整えていく計画だ。

属人性が高い仕組みとなっていること、店舗スタッフが家族のような繋がりを持っていることから、チェーン店のような展開ではなく、店舗ごとに個人経営で成り立つ形を作っていくことに大きな意味がある。

そこで、規模の小さいお店で出店を進めていきたいと考えているのだが、最近の物価上昇が大きな障壁となっている。

小さなお店で経営を回していくにあたって、魚の原価が大幅に上がっている状況は向かい風と言わざるを得ない。世間で見ても、地域の安い寿司屋はどんどん数を減らし、生き残っているのは高級寿司店ばかりである。また、魚をメインでやりたいという人が少なく、2代目3代目が続かないのもこの業界の大きな課題である。

お店を任せられる人材が育たない要因は他にもある。例えば魚の捌き方1つをとっても、サイズによって扱いが変わるため、マニュアルなど型にはめた形で技術を教えることが難しいのだ。

そんな背景から丸冨水産では、技術をあれこれ教えるのではなく、どれだけ魚を好きになってもらえるか、私たちの経営方針に共感してくれるかが一番重要だと考えている。

まだまだ課題は多く残っているが、1人でも多くのお客様に新鮮でおいしい魚を届けるという魚屋としての原点は変わらない。

この想いを忘れることなく、これからも新たな可能性を模索し、信頼できる「家族」とともに、丸冨水産は前に進んでいく。

]]> 歴史から紐解く、屯ちんのあるべき姿と進むべき道 /roots/tonchin202312/ Wed, 20 Dec 2023 03:53:57 +0000 /?post_type=roots&p=1466

 

プロローグ

foodex groupのブランドの原点、東京豚骨ラーメン「屯ちん」。

今や世界にその名を馳せるブランドとなったが、そこには一貫した哲学と柔軟な戦略があった。

売上が伸びても無闇に拡大せず虎視眈々と好機を狙い、ここぞという時にはしっかり力を発揮する。

原点を守りつつ、新たな挑戦に向け仲間と歩みを進める屯ちんの軌跡とは。

また、次なるページには何が記されるのか。

これは、ただのビジネスの成功譚ではなく、情熱と挑戦で紡がれた来世に繋ぐ物語である。

 

未知に挑む兄弟

屯ちん立ち上げ

1992年10月23日。

屯ちんの物語は、たった9坪の小さなラーメン屋から始まった。店を切り盛りしていたのは、運送屋のドライバーからラーメン屋を志した一人の男。後にfoodex groupの社長となるその男は、理想の味を求め、ラーメンで新たなチャンスを掴もうと奮闘していた。

外食業界の専門誌を参考に試行錯誤し、麺も自分で打った。しかし、飲食業界未経験の彼にとって、求める味の再現は容易ではない。現実は厳しく、夢は遠のくばかりだった。

そこで救世主となったのが、実の弟、後の副社長である。兄の苦悩を知り、東京で料理人として働く傍ら、店を手伝いに来るようになった。オープン直後は客足もまばらだったため、20時には店を閉め、他店のラーメンを食べ歩いては厨房に戻り、兄弟そろって味の追求に励んだ。

二人が目指したのは、端的に言うと、「豚骨と醤油の良さを融合させた、新しいスタイルのラーメン」。こってりしすぎず、かといってあっさりもしすぎない。食べ応えと食べやすさを兼ね備えた、一見無謀とも捉えられる新しい挑戦だった。

数ヶ月経って、少しずつ理想の味が再現できるようになってきた。しかし、質が安定しない。朝、昼、夜と時間帯によって味が変わってしまう。

お客様からは「この前は醤油っぽかったのに、今日は豚骨っぽいね」と、あり得ない感想をいただくこともあったほどだ。

 

哲学の誕生と発展

屯ちんのラーメン

朝まで試行錯誤を行い、店舗で仮眠をとって次の日を迎える毎日が約2ヶ月ほど続いた。

今となっては信じられないような状況だったが、若い男二人が一生懸命ラーメンを作る姿に心打たれたのか、ありがたいことに毎日来店するファンも現れた。

コアなお客さまに支えられ、過酷な日々を過ごした末に、ようやく誕生したラーメン。これこそが、屯ちんの「東京豚骨ラーメン」なのである。

ただ、問題はラーメンの味だけではなかった。

社長が飲食業未経験だったこともあって、工事を依頼した内装業者に中途半端な対応をされてしまい、厨房の環境は劣悪だった。空気の入れ替えが十分にできず、厨房は失神するほどの暑さ。開店30分後には意識が朦朧として、互いに水をかけ合って凌ぐようなこともあった。

このままでは続けられないと、味が決まりお客様も集まるようになってきたタイミングで移転を決意。こうして屯ちんは、現在池袋本店がある場所に移ることとなった。

移転後、人気はさらに爆発し、メディアにも取り上げられた。一日2000人ほどのお客様が訪れ、行列が絶えない日々。

しかし、人気が出過ぎると、皮肉や妬みも生まれる。「あの店は怪しい薬を使っている」などと、ありもしない噂をでっち上げられることすらあった。こんな状況で自分たちが天狗になっては地域の人々も離れてしまうと感じ、営業の合間に店舗の外を清掃したりと奉仕活動にも励んだ。

 

大切にすべきは「人」

屯ちんは売上が伸びてきた後も、店舗数を急激に増やすような拡大路線は取らず、会社の組織作りに注力してきた。

この考えを強く抱く要因となった出来事がある。それは、当時のラーメン事業としては考えられない額の初期投資をして、歌舞伎町のど真ん中に出店をした時のこと。

結果として、想定に比べ客足は伸びなかった。後にテレビに取り上げられたことで多少売上を伸ばすことはできたものの、大成功とは言えない状況。

また、無理に事業を拡大したせいで現場はまるで戦場と化していた。多忙で過酷な労働環境についていけず、人がバタバタとやめていったのである。

「こんな賭けのような形で続けていては、スタッフを不幸にするだけだ。」

現実を目の当たりにした二人は原点に立ち帰り、改めて屯ちんのビジョンについて語り合った。

お客様が「人」ならば、そこで働くスタッフもまた「人」。

今だけ高い給料を渡して満足してもらうことは簡単だが、それは一時しのぎに過ぎない。それよりも安定した組織体制や給料体系を組むことで、一般企業と同様に飲食事業でも産業化を進めていきたい。

この出来事は、飲食事業の経営において、一番大切なことを考え直すきっかけとなったのだった。

 

新世界で得たもの

屯ちんの海外進出

やがて屯ちんの物語は、国境を越え世界へとステージを広げる。

海外進出の背景には、2011年3月11日に発生した東日本大震災が大きく関わっている。この予期せぬ災害は、屯ちんにとって大きな転機となった。安泰と思われていた日本の未来に、不確実性を感じざるを得なかったからだ。

日本のみに依存しない、新たな土台の必要性を痛感し、まずは地理的に近い中国への進出を決意。その後アメリカ、さらにはタイへの進出にも成功した。

この過程で屯ちんが学んだことは多い。日本の食文化は世界基準であり、他国でも十分に戦えるということ、海外進出には信頼できる仲間の存在が不可欠であるということ。

そして、最大の学びは、現地の法律の理解が極めて重要だということである。国民性や文化の違いを理解することももちろん必要だが、法律の遵守ができていなければそもそも営業ができない。

この点タイでは、現地のパートナー企業と協力したおかげで、スムーズに店舗展開を進めることができた。

一方、アメリカでは現地のマーケティングを一から学び、手探りで食文化やスタイルの違いに対応しながら進めていったため、経営が軌道に乗るまでにとても時間がかかった。ただ、自力でも最終的にミシュランガイドの格付けのひとつ、ビブグルマンの獲得という明確な成果を上げられたことは、ブランドとして大きな自信に繋がっている。

 

そして未来へ

屯ちんののれん

国内外に着実に販路を広げ、近年はビジネスパートナーから声をかけていただく機会も増えた。しかし、屯ちんのラーメンは、味へのこだわりが非常に強く、技術の継承に時間がかかることに加え、品質を安定させることも簡単ではない。

そのため、ビジネスとして店舗展開を進めるという観点でみると、効率があまりよくないのが正直なところである。だからこそ引き続きブランド力を磨きつつ、我々のビジョンに心から賛同し、本当に信頼できる仲間とともに前に進んでいく。

近い将来、技術の進歩によって、味の再現が容易になる日が来るかもしれない。もしくは、ニューヨークでのレストランスタイルへの変更や、より回転率を求めたファストフードのような手軽さを取り入れるなど、少し形を変えることで、より多くの人々に屯ちんのラーメンを届けることが可能になるかもしれない。

そんなチャンスで力を発揮するためにも、まずはブランドの土台をしっかりと固めることを最優先に、屯ちんを愛してくださるお客様を大切にしながら、新たな飛躍の準備を整える。

そして、原点であるブランドの味を守りながら、信頼できる仲間とともに未来に向かって歩みを進める。ここまでは終わりなき旅の一節に過ぎない。屯ちんの飽くなき挑戦は、これからも続いていく。

]]> 日本からアメリカ、そしてタイ文化との新結合。 /roots/tonchin-thailand202310/ Sat, 28 Oct 2023 08:39:58 +0000 /?post_type=roots&p=1401

 

プロローグ

新たなブランド発展の最前線となる場所。

タイの首都バンコクを中心に計4店舗を構えるTONCHIN Thailand。

店舗展開を進めた裏側には数々の挑戦があった。

出店場所、メニュー、人材の問題など、多くのトラブルを乗り越え今に至る。

その険しい道のりの先で見つけたものとは何か。

foodexの歴史の1ページを刻むタイでのエピソードを辿る。

 

冒険のはじまり

冒険のはじまり

TONCHIN Thailandの冒険は、ニューヨークのミッドタウン地区に店を構えるTONCHIN New Yorkが、ビブグルマンを獲得したことから始まる。

ビブグルマンとは、ミシュランガイドの格付けのひとつで、コストパフォーマンスが良く、質の高い料理を提供する店に与えられる称号だ。

この名誉が伝わり、タイのとある企業から「我が国でも出店してみないか」とお声がかかった。これをきっかけに、この企業を現地パートナーとして、私たちはTONCHINをタイで広める決意をしたのだ。

新しい土地での挑戦。
最初の課題となったのが、味の再現である。

異なる文化、風土、食材で納得のいく味を再現するのは容易ではなかった。レシピを作り、マニュアルを完成させるまでには、約3ヶ月の時間を費やした。

さらに大きな課題となったのは肝心の出店場所だ。ただでさえ熾烈なタイの飲食業界。そこへ新規で参入するのは、困難を極めた。

現地パートナーとも協力して必死に探したが、条件に合う場所がなかなか手に入らない。
次のステップに進むこともできず、日本から送り出していた責任者には、現地の別の飲食店で修行を積んでもらうこととなった。

苦労の末、ようやく理想の場所を見つけたときには、実に丸一年もの月日が経過していた。

 

試練の連続

試練の連続

いざオープン。

タイの食文化も取り入れたメニューや和を貴重とした空間づくりなど、丁寧に店舗づくりに取り組んだ結果、お店は開店初日から多くのお客様で賑わった。

大使館近くに出店したことや、ニューヨークでの実績も手伝って、タイのみならず、さまざまな国の方が訪れてくれた。

しかし、すべてが順調にいかないのが現実である。

オープンの1ヶ月前から研修を受けていたスタッフが、スピード感についていくのが難しかったのか、3ヶ月後にはほとんどいなくなってしまったのだ。

さらに、仏教国タイでは出家をする人がいたり、徴兵制度で一部の男性には兵役が課されたりもする。どちらも限られた期間ではあるものの、丁寧に育成したスタッフがすぐに抜けてしまうというケースが多発した。

加えて、ここで追い討ちをかけるように訪れた世界を襲う歴史的な出来事。

それがコロナのパンデミックである。
今までの常識を180度覆すような毎日の始まりだった。

 

危機からの躍進

Tonchin Thailand Siam Paragon店

Siam Paragon店

タイではロックダウンが行われ、飲食店の営業は困難な状況となった。そんな中、アジア最大級とも言われる大型商業施設Siam paragonにテナントの空きが出たという情報が入る。

この厳しい状況下での新規出店には、懸念の声も多くあがった。ただ、もともと出店したかった場所だったこともあり、進む決意を固めた。

しかし、コロナ禍で店舗での営業はできない。初めは未経験のデリバリーからのスタートを余儀なくされる。

耐え忍ぶこと数ヶ月、徐々にパンデミックも収束し、人々が商業施設に戻り始めた。お店にも人が入ってくるようになり、少しずつ経営も安定していった。

また、以前から問題だった人材に関しても、新たな解決策を見つけることができた。

それがミャンマーからの移民の採用である。

ミャンマーの情勢が不安定になり、タイ政府が移民の受け入れを発表したことで、仕事を求める多くの労働者を獲得することができたのだ。

仕事がなければビザを取得できないということもあって、ミャンマーのスタッフは積極的に働いてくれた。

集中力が高く正確な仕事ぶりは安心感があり、頼りになる存在だった。

主言語ではないタイ語でのやりとりという点で、コミュニケーションの問題が出てきた。そこで、月に1回テストを実施し、理解度を確認するとともに一人ひとりの個性を見極めた。

テストの結果を踏まえてスタッフを適材適所に配置することで、その能力をより的確に発揮してもらうことにも繋がった。こうして、現地のスタッフだけでも安定した店舗運営を行えるようになっていったのだ。

 

TONCHIN Thailand
成功の裏側

オペレーションが安定したことで、その後は3店舗目、4店舗目と順調に展開していくことができた。コロナ禍で葛藤の末にオープンした2店舗目も、現在はタイにある4つの中で最も売上が大きい店舗となっている。

めざましい成長ぶりに、最近では5店舗目の話が持ち上がるほどだ。

タイでここまで業績を伸ばせた大きな要因は何か。それは、ニューヨークや日本、台湾、上海といったさまざまな国での成功があったからこそだと感じている。

たとえば、6月に提供を開始した「ビーガン味噌ラーメン」は、TONCHIN New Yorkでのヒット商品。また、価格設定や回転率を重視する際には、日本の店舗を参考にしている。

これまで進出してきた国々での試行錯誤があったからこそ、タイでもブランディングの方針を明確にすることができた。

「美味しいものを安く提供する」というブランドコンセプトを守り、強みである高いクオリティのラーメンを提供することで差別化をはかる。徹底的にリサーチし、店舗によって見せ方を変えるのも、他の国で確立してきたやり方だ。

さらに、現地のパートナー企業がいたというのも非常に大きい要因であった。

特に、その国特有のマーケティングや文化、慣習、政治的背景などのリサーチは、自力で行うには時間と労力がかかる。

パートナーの知識と経験が、これらの課題を乗り越える助けとなった。

コンセプトや戦略の部分では、今でも意見がぶつかりあうこともある。しかしこれは、どちらにも譲れない部分があるからこそ。質の高いブランドを作るための情熱がお互いにある証拠だ。

現地で良い繋がりを持てたことに感謝しつつ、これからもTONCHIN Thailandを盛り上げるための意見交換を続けていけたら嬉しく思う。

 

原点、そして未来へ

Tonchin Thailand Central Plaza Westgate店

Central Plaza Westgate店

近年タイでは寿司や天ぷらといった定番の日本食だけでなく、牛丼などのチェーン店の進出が目まぐるしい。

2022年には日本ブランドの飲食店が5,000店舗を突破し、日本の味もタイの食文化にすっかり溶け込んだと言える状況になった。

この流れを受け、会社としても様々な日本食ブランドをタイに立ち上げていきたいと考えている。

ラーメンに限らず、居酒屋形態、定食や串物を中心としたお店など、私たちにはさまざまな飲食店の選択肢がある。

最新の情報や世界の情勢、動向などを常にキャッチできるようにアンテナを張り巡らせ、パートナーとも協力しながら可能性を探究しているところだ。

タイ進出の原点とも言えるTONCHIN Thailand。

そのブランドを大切に守りつつ、「食を通して人を幸せにする」企業理念を胸に、これからも私たちは未来に向かって歩み続ける。

]]> 多文化の交差点で進化する「ジャパニーズ・ラーメン」 /roots/tonchin-ny-culture/ Thu, 02 Feb 2023 05:38:20 +0000 /corporate/?post_type=roots&p=631

 

プロローグ

誰もが美味しく食事をしながら、愛をつなぐ場所。

ニューヨークのミッドタウン地区、メインストリートから少し中に入った場所。
そこにTONCHIN New Yorkはある。

日本の「屯ちん」とニューヨークの文化をかけ合わせた、新たな食文化を形成した場所だ。
連日多くの人で賑わいを見せている。

豊富なお酒を取り揃え、それに合わせたおつまみと唐揚げ、餃子といった和食を中心としたメニュー構成。

もちろん自分たちの強みであるラーメンも決して手は抜かず、麺は全てお店で一から作り上げる。

そして、食事以外の店員のサービスやお店の内装といった部分にも徹底的にこだわり、常にお客様に食事を楽しんでもらうことを大切にする。

その結果、日本人旅行客だけでなく、多くの現地の方にもリピートしていただき、予約しないと入れないという日も多い。

そんなTONCHIN New Yorkはどのようにして今のコンセプトにたどり着いたのか。

丸2年を要した独自の食文化形成と未来に向けた想いとは?

 

日本ではない、
目指すは
ニューヨーク。

ニューヨーク進出を果たしたTONCHIN

2000年代には上海で居酒屋のプロデュース、2011年には台湾でも「屯京拉麺」をオープンし、着実に海外施策を進めていたフーデックスグループ。

多くの企業も感じていたように、当時の中国の活気や経済力は非常に魅力的で、私たちも中国を拠点にアジアでお店を展開していこうと動いていた。

視察のためにベトナム、タイ、インドネシアといった東南アジアの国々を訪問するも、言葉にできない違和感を抱えて帰国。そこで振り返って考えてみると、違和感の正体は「どこも日本を参考にしていない」というものだった。

どの国に視察にいっても日本らしいモノは1つもない。
これまで「アジアの食文化の中心は日本だ」と思い込んでいた我々にとってこれはかなりの衝撃だった。

新しくオープンする商業施設やお店もよくよく見てみると全然日本らしくない。

本気で海外で店舗展開を行っていくのであれば、アメリカに出店しないと世界には相手にされない。そう感じてアメリカ進出を決意した。それからアメリカでも西海岸なのか、東海岸なのかと検討を重ね、さまざまな理由からニューヨークがベストだろうという結論に至った。

ほぼ同時期に世界の名だたるレストランもこぞってニューヨークを目指しているという情報を聞いたことも、ニューヨークを選んだ理由の1つだ。

しかし、さすがは世界中のレストランが目指す町ニューヨーク。話を聞く限り出店そのものが難しいことに加え、継続することはさらに難しいことを知る。

オープン前に撤退になる事例も多く、現実はかなり厳しかった。日本のようにインフラも整っておらず、建物が100〜200年と経過しているところも多いため、不動産の契約ですら一苦労。他にも働き手はどうするのか、食材の調達はどうするのか。問題は山積みだった。

単純に日本のようなスタイルで成功するかといったらそうでもないため、1つひとつ手探りで進めるしかなかった。

でも逆をいえば、有名ラーメン店の名前はニューヨークでは知られていない。
ちゃんと自分たちのお店がつくれれば、必ず評価される。

日本のように有名だから、安いからといった判断基準ではなく、「いいものはいい」と評価するフラットな視点に私たちは希望を見出したのだ。

 

ニューヨークの
食文化との融合

屯ちんのラーメンとニューヨークの食文化の融合

フーデックスグループの強みは、すべてゼロイチで立ち上げることにある。

30年前にラーメン店をオープンした当時も、麺づくりやスープ作りなど試行錯誤しながらすべて手作りでやってきた。時間はかかったが自社で1からやってきたので、現地にあるものでほぼ同じものは再現できる。

そこで、自分たちのラーメンは根底にありつつも、ただ料理を提供するだけじゃなく、自分たちにしかできない空間を作ることをテーマとして掲げた。

こうした原型はあったものの、TONCHIN New Yorkが現在のコンセプトにたどり着き、オープンするまでなんと丸2年を要した。

大手企業であれば現地のレポートや統計をもとにスピーディーに海外進出を進めていくのが普通。

しかし、私たちはそれをしなかった。

とにかく足でこのお店にはどんな人がいるのか、どんな人に受けていて何が人気なのかといった地道な調査を1店舗ずつローラー作戦で調べ上げていったのだ。

さすがに日本とニューヨークを行き来していては時間が足りないので、日本から2名をニューヨークに派遣し、本当に屯ちんがニューヨークで営業できるのか、どんなスタイルが受けるのかリサーチを重ねた。

実際、TONCHIN New Yorkの店づくりにはこの2名の声が全面的に活かされている。これは100年続くお店、100年続く会社になるためには日本と同じにしては絶対にダメだという結論に至ったからだ。


現地の人や文化をリスペクトし、日本のいい所をかけ合わせる。

TONCHIN New Yorkで提供しているラーメンの写真

その結果、お酒を提供するシーンを前面に出しつつも、日本らしいおつまみやラーメンを提供するというメニュー構成となった。カクテルを飲み、その場所にしかない料理を楽しみながら、ラーメンを食べ、かき氷で締める。こうしたコンセプト設計のおかげで、現地の方からも高い評価を得られている。

その他、内装やデザインにかかわる部分も同様で、自分たちの思いを形に変えて店舗を1つひとつ作り上げていくにあたって、現地の声を取り入れることが大事だと感じた。そこで、日本のデザイナーに頼むのではなく、現地で実力のある人を自分たちで見つけ、TONCHIN New Yorkではこんな風にしたいなどの要望を直接交渉していった。

厨房が見やすくなっていたり、自家製麺の製造工程が見えるような内装になっていたりするのは、料理だけでなくお店に来たことを楽しんでもらうためのこだわりである。

そして、お店の場所はニューヨーク、ミッドタウン地区。繁華街だが、大通り沿いから少し外れた飲食店の少ないエリア。人を呼ぶお店作りができればここでも間違いなく人を集められるだろうと計算した。

 

守るもの、
壊すもの

現場スタッフがいきいきと働ける環境

日本とは違うお店にしたというのは間違いないが、もちろんすべてを変えたわけではない。

料理への思いや、日本と同様にスタッフがいきいきと働ける環境作りに徹していることは変わらない。面談やミーティングといったスタッフとコミュニケーションできる機会を設け、常に現場の意見を吸い上げ運営に活かしている。

また、毎日食材や料理をチェックするため、専用のシステムに画像や動画、コメントを投稿してもらい、ラーメンのスープの状態から料理全体の盛り付けなどを、日本で働いているスタッフがチェックできる状態にしている。

ただ、スタッフの採用に関しては大きく異なり、仕事に直接関係ない情報となる家族構成や人種、年齢、性別などは聞いてはいけない。

ニューヨークのチップの相場は20%だが、当たり前のようにお客様から20%もらえるだろうと思っていると、料理の価値を伝えにくくなってしまう。私たちはそこに工夫を凝らし、お客様に説明しやすい、アピールしやすい商品にするためのストーリーを作った。

たとえば、ラーメン1杯にしても
「このスープは今そこに見える寸胴という鍋で炊いて、麺はお店の地下で一から作っています」
「タレに使われている醤油は日本から空輸していて、日本で30年続く屯ちんの歴史が詰まっているんです」といった具合に伝える。

お客様もそうしたストーリーを聞くのが好きで、喜んでいただけているのでチップとサービスの好循環が生まれている。料理の値段が他のお店よりも5円、10円安いからという理由ではなく、楽しむために足を運んでくれる、そんなお店が評価されるのである。

こうした言葉やコミュニケーションからも食に対する文化が違うと感じていて、これがアメリカのレストラン文化なんだと思う。

チップ制に関してはTONCHIN New Yorkのオープン当初、廃止していく話も出始めていた。しかし、それではサービスとして稼ぎたい人が来ないので、結果的にいい人が集まってこない、続かないことがわかった。

アメリカでは何十年と1店舗でサービスのプロとして働き続ける人もいる。その間、結婚し子育てをし、子どもが自立していく。お客様に評価してもらえるレストランで働けば、個人としてもプライドをもって仕事ができる。そうした従業員がいるお店は経済的にも安定していき、結果的に長く働けるお店になるので、チップ制は欠かせないサービスだと感じた。

 

続ける覚悟、転機

内装まで終わり、いざTONCHIN New Yorkをオープンしようという直前になって文化が違うことでの意見の食い違いが生じてしまった。

料理を試食してみると、味が濃い、薄い、しょっぱい、量が多い、少ない、さらにはアメリカでは食事の時こうするなどといったさまざまな意見が出てきたのだ。私たちがはじめてのアメリカ進出だったこともあり、本当にいろいろな意見をいただいたが、結局私たちは最初に自分たちが決めたやり方でオープンした。

実際オープンしてみて、間違っていなかったという確信に変わったのがお客様の評価である。

お客様が「おいしかった」「すごくよかった」「また来たい」などと言ってくださったのは本当に嬉しかった。いくつかブラッシュアップした点もあるが、大きく最初のコンセプトを曲げずにここまでこられたと考えると間違っていなかったのだろう。

とはいっても、オープンしてから1年は苦しい時期でもあった。

ただ営業的には厳しくても来てくださるお客様には満足して帰っていただいていたので、これを乗り越えないとこの先には進めないと覚悟を持って続けていった。


そして地道に努力を続けていたある日、
ミシュランガイドのビブグルマンでTONCHIN New Yorkが紹介された。

これが追い風となり、お客様が増え、今ではありがたいことにアメリカ国内だけでなく、カナダ、ヨーロッパ、アジアのさまざまな国からTONCHIN New Yorkを自国で展開してみたいとオファーをいただいている。

 

新たな挑戦で
得たもの

お客様であふれる店内写真

お店に来てくれたお客様へのサービスは私たちの強みだと思うが、一方でブランドの発信力に関してはこれまであまり注力していなかった。そこで、ブランド強化の新たな試みとして他ブランドとのコラボ施策に挑戦をスタート。

具体的には2020年5月にブッシュウィックでポップアップを行った。結果は初日で売り切れが出るといった予想外の大盛況だった。かき氷やカクテルのような、道を歩きながら食べられるものに焦点をあてたというのが成功の要因である。

しかしそれ以上に、ラーメンに限らずブランドのメニューが評価されていると感じられたので、TONCHIN New Yorkとしての自信につながった。

今後も自分たちから発信できる機会は積極的に活用しながら、ブランドの発信力という面にもさらに注力していきたい。

 

その先にあるものとは

5年かけてたどり着いたTONCHIN New Yorkの完成形

TONCHIN New Yorkのオープンから約5年が経ったが、5年かかってようやくTONCHINブランドが完成形に近づいて来たと感じている。

そう感じることができたのは、ミシュランガイドへの掲載やポップアップの成功などの目に見える実績もあるが、一番は来てくれたお客様から感謝の声が非常に増えたことである。

今後はより多くのお客様に食事を楽しんでいただけるように、ブランド強化と人材育成を最優先に力を入れていきたい。

ブランドの軸はぶれないように、何が大切かを常に考え、答えを出す。そして現地で出会った人材の強みを最大限活かせるステージを用意する。

こうして、お客様に喜んでもらえる場所を提供し続けることで、ブランドとしての役目を果たす。

TONCHIN New Yorkらしさ、自分たちにしかできないことを1つひとつ極め、北米で一番のジャパニーズラーメンブランドになれるように進化を続けていきたい。

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飾りすぎず気取らない、ブルックリンとのマリアージュ /roots/tonchin-brooklyn-original/ Thu, 02 Feb 2023 07:58:04 +0000 /corporate/?post_type=roots&p=637

 

プロローグ

地域に愛されながら、食事を通して新たな「体験」を提供する場所。

ニューヨークでは2店舗目にあたるのがTONCHIN BROOKLYN。

ここでは、1店舗目とは違うコンセプトで自らの価値を提供し、地域の方々含め多くの人気を集めている。

自然派ワインと和食。

強みであるラーメンは残しつつ、自分たちにしか提供できないものにフォーカスを置いた。

こうして食事を通した新たな「体験」を最高のサービスとともにお客様にお届けしている。

そんなTONCHIN BROOKLYNはなぜ、1店舗目と同じニューヨークに出店することになったのか。

また、今のコンセプトにたどり着いた経緯とは。

2店舗目を展開するにあたっての変化、一貫して変えなかった信念についてご紹介する。

 

逆境から見えた
新たな可能性

TONCHIN BROOKLYNの外観写真

ニューヨーク2店舗目を出店するきっかけとなったのは、コロナウイルスのパンデミックである。

誰もがご存じの通り、世界中の飲食店は大きな打撃を受け、閉店や倒産なども相次いだ。ロックダウンによってニューヨーク中から人影が消え、ミッドタウンにあるお店もかなり苦しい状況が続いていた。

正直どうしようもない部分も多かったが、問題はこの後にあった。なぜか、ロックダウン後も全然お店に人が集まらなかったのだ。

原因をさまざまな角度から詳しく探ってみることにした。
そこで判明したのが「常連客の多くがブルックリンに住んでいる」ということだった。

彼らはコロナの影響でミッドタウンまで足を運ぶ機会がなくなり、結果としてお店に行くこともなくなっていたのだろう。

この事実をきっかけに、ニューヨーク2店舗目としてブルックリンのウィリアムズバーグという地域にお店を構えることを決めた。ウィリアムズバーグを選んだ理由はブルックリンの中心街だからである。

まず先駆けとして、この地域でミッドタウン店のポップアップを開催した。ラーメンではなく、おにぎりやかき氷などの手軽に歩きながらでも食べられるものを中心に選んだ。その施策が功を奏し、なんと初日から売り切れが出る人気ぶり。この地域で間違いなかったのだと確信を持った。

そこからさらに3か月ほどポップアップを続け、徐々に地域の方々にも愛されはじめていることを実感する。こうして最終的にブルックリンの店舗は常設されることになった。

 

五感の共振

TONCHIN BROOKLYNの牡蠣とワイン

ポップアップで人気を獲得できたといっても、まだまだミッドタウンのお店に比べれば知名度は低い。

このお店で何が提供できるかと考えたときに、ふとTONCHINという屋号の意味を思い返した。
そして、この空間でしか楽しめない料理を通して、人々が繋がり、幸せになる体験を届けることを意識してお店のコンセプトを作りこんだ。

具体的には厳選されたナチュラルワインとともに楽しんでもらえる、モダンなジャパニーズレストランに仕上げた。新鮮なローカルフードを日本の伝統的な味付けと、ニューアメリカンなテイストをうまく組み合わせて提供する。

内装や食器に木目調を取り入れるなど、モダンなジャパニーズレストランにふさわしい雰囲気になるように細部までこだわった。

こうして、おしゃれなレストランバーといった雰囲気が色濃いミッドタウンのお店と差別化を図ったのだ。

ここまでこだわったのは、ミッドタウンのお店を訪れたことがあるお客様に対しても、新たな「体験」で楽しませたい、喜ばせたいという想いがあるからである。

実際、どちらの店舗も訪れたお客様からは「違うブランドかと思った」という声をよくいただいている。新たな体験を感じてもらえており、本当に嬉しい限りだ。

 

温故知新、
温故創新

世界中から集めた約90種類もの自然派ワイン。

ミッドタウンのお店とコンセプトを変えたこともそうだが、最も驚かれるのがメニュー構成の違いである。なんとミッドタウン店のメニューと約80%が違うものになっている。カクテル類も完全にカットし、コンセプトにもしているワインにフォーカスを置いた。

その代わりワインには精一杯こだわりをもっていて、世界中から集めた約90種類もの自然派ワインを取り揃えている。これには自然派ワインの発信地になりたいという想いもあり、ワイン好きでもメニューを見てわくわくしてもらえるように意識している。

自然派ワインはほどよい酸味が心地よく、和食と非常に相性がいい。

自然派ワインと和食、ひいては文化と文化の融合。

自分たちにしかできないことをもっともっと発信していくことは、1つの役目でもあると感じている。

そのための試みとして、日本のソースを販売する現地企業とのコラボを1日限定で実施したことがある。現地の方を中心に事前予約はすぐに埋まり、ブランドの発信にも貢献できた1つのいい経験だった。

 

継承と進化

お店のコンセプトやメニュー構成など、意識して変化を加えた要素もあるが、一貫して変わらないものもある。それが人材の採用や育成に関してである。

飲食業である以上「食」にこだわることは当然意識しているが、それと同じくらい「人」という存在も重要視している。


食事を通した新しい「体験」を最高のサービスとともにお客様にお届けする。

これはお客様の満足度向上につながるとともに、従業員のやりがいにもつながる。お客様とのいい関係が作れているお店は繁盛し、結果として企業に成長をもたらす。

お客様はもちろんだが、従業員全員のことも考えなければ成し遂げられないのだ。

そのために、食事を通して素晴らしい体験を提供できる、情熱的でホスピタリティのある人材を集めたチームを作りたい。

もっと具体的にいうと、細部にまでこだわる人材を求めている。どんなに小さなことでも、積み重ねることで大きなことを成し遂げられる。だから飲食での経験などももちろん大事ではあるが、誠実で情熱があり、学ぶ意欲のある方はすごく向いていると思う。

 

The Original

TONCHIN BROOKLYNの情熱的でホスピタリティ溢れるチーム写真。

まずは3年以内に、地域で一番のジャパニーズレストランになることが目標である。

そのためにTONCHIN BROOKLYNというブランドにしかできないことを常に考えている。

今はありがたいことに地域の方々にすごく愛されて日々お店を営むことができているので、まずは地域の方々に喜んでもらえる場所を提供し続けたい。

そして、東京のラーメン屋がニューヨークに出店し、自然派ワインに合うジャパニーズレストランとして道を歩んでいるように、ブランドとして新たな可能性がないか模索する。

いつもお店を愛してくれる地域の方々への感謝を忘れることなく、より多くのお客様に満足していただくのだ。

こうして、TONCHIN BROOKLYN、さらにはグループ全体として成長し続けるために、信頼できるチームと今日も歩み続ける。

]]> スペシャルティコーヒーの新世界へ /roots/coffeevalley-specialist/ Wed, 22 Feb 2023 08:18:27 +0000 /corporate/?post_type=roots&p=738

 

プロローグ

人生を変えるような新たなコーヒーと出会える場所。

南池袋にあるCOFFEE VALLEYは、こだわり抜いたスペシャルティコーヒーを提供することで自分たちの存在を示し、地道にお客様の信頼を積み上げている。

スタッフ自らが南米をはじめ、世界各地のコーヒー農園に足を運び、自分たちの感覚で吟味をする。味わいや見た目だけでなく、生産者と直接コミュニケーションを取り、信頼を築きながらコーヒーの個性を体に染み込ませる。

そうして受け取ったバトンは、新たな魅力が加えられ、至極の一杯となって手渡される。まさにそれは、コーヒーの新世界へ飛び立つ切符のように、コーヒーが苦手な人でさえも新世界へといざなうほどだ。

そんなブランドのきっかけは1人の「コーヒーが飲めない男」からはじまる。

コーヒーに無我夢中となり、8年以上続くコーヒー専門店を創り上げるまでに至ったこだわりと秘めた想いとは何なのか。

「10年先もかっこよくありたい。」

この言葉を胸に、コーヒーと真剣に向き合い、難しいことは考えず、当たり前のことを当たり前にやり遂げることで、積み上げてきた軌跡をたどる。

 

一滴のこだわり

厳選したコーヒー豆を使う様子

COFFEE VALLEYのコーヒーの最大の魅力は、味のバランスが非常に良いということだ。また、コーヒー本来の苦みや深みに加え、甘味や酸味を感じさせる豊富なフレーバーを取り揃えている。

直に目で見て、味を確かめた、愛着のあるコーヒー豆を使うこと。

実際、スタッフにコロンビアの農園まで足を運んでもらうこともある。逆にエチオピアの農園の生産者がお店にコーヒーを飲みに来たこともある。こうして南米という遠く離れた場所ともうまく信頼関係を構築している。

どんな人が、どんな場所で、どんな想いでつくっているのか。また、どんな淹れ方をしてどんなコーヒーが出来上がるのか。

味や香り、見た目だけでなく、音や肌触りを通して理解することで、最大限の価値を引き出した、最高の一杯に繋がる。

これはスペシャルティコーヒー専門店としてコーヒーに懸ける想いの現れでもある。

こだわりがあるだけに、立ち上げ当初はどちらかというと年配の方が多いのではないかと予想もしていたが、20代30代のサラリーマンや主婦など、若い人にも足を運んでもらえているのは嬉しい誤算だった。

 

コーヒーの深淵に出会う

COFFEE VALLEYで販売しているコーヒー豆の写真

ここに至るまでの原点ともいえるのが、1人の「コーヒーが飲めない男」の話だ。

ワーキングホリデーで訪れていたロンドン滞在中のこと。当時働いていた飲食店でたまたま口にしたエスプレッソをきっかけに、コーヒーの世界に興味を抱く。

同じ豆で同じ淹れ方をしても全く同じ味にならない。

コーヒーが飲めなかったはずなのに、こうしていつの間にか無限に広がる味わいの奥深さに引き込まれていった。

ビザが切れて日本に戻った後は、東京でコーヒー関連の仕事がしたいと飲食業界へ。
そこからはよりおいしいコーヒーを追い求め続ける毎日。

そして、最終的にはコーヒーをやっていることを知った知人の紹介で、COFFEE VALLEYの立ち上げに携わることになり、店長となった今も深遠なコーヒー探求の旅の真っ最中といったところだ。

 

乗り越えるべきもの

シンプルなデザインが特徴のCOFFEE VALLEYのグッズ

COFFEE VALLEYの立ち上げ当初、池袋にはコーヒーの有名チェーン店が多く立ち並んでいたが、スペシャルティコーヒーというジャンルは珍しかった。

厳選した豆を使った本格派のスタイルという点では他と差別化できていたので、池袋でも自分たちのコーヒーならきっとうまくいく。そう意気込んでいたが、その先は険しい道のりだった。

まず、スペシャルティコーヒー専門店という新たな存在を認知してもらうこと。

この大きな壁が目の前に立ちふさがっていた。

新たな存在だったこともあり、なかなか受け入れてもらえない。実は、立ち上げ当初はコーヒーの味に関しても賛否さまざまな意見があった。

そして一番は、「人」に関しての問題である。

価値観や考え方は人それぞれで、当然だがすべてを理解するのは難しい。とはいえ、スタッフ同士の衝突や離職など、お店として不安定な状態を見過ごすわけにはいかなかった。

 

プライド、挑戦

オープン以来、さまざまな問題に直面していたとき、ふとCOFFEE VALLEYにできることを思い返す。

「自分たちの一番やりたいこと、やるべきことは何か」

その答えとしてCOFFEE VALLEYが進んだ道は、コツコツと毎日を積み上げて乗り越えていくことだった。決して、奇をてらうことはしない。

コーヒーの魅力を伝えるため、当たり前のことを当たり前にやり遂げる。こうして1つひとつお客様との信頼を築き上げていった。

その間、自分たちの大切にしていたコーヒーの味は一度も変えていない。スペシャルティコーヒー専門店として絶対に譲れないプライドがあった。

一方で、コーヒー以外の部分では常に試行錯誤しながら挑戦をしている。たとえば、フードやスイーツのメニューはコーヒーとの相性は当然ながら、お客様の反応や季節ごとで変化を加えている。

そんなちょっとしたことを繰り返すことで、少しづつ霧が晴れていった。

 

核心に咲く
ブランドの想い

コーヒーを淹れる様子

紆余曲折したなかで、コーヒーについて真剣に向き合ったからこそ気づいたこと。

それは、COFFEE VALLEYを続けてくれているスタッフは社員、アルバイトに関わらず、

みんな「コーヒー好きである」ということ。

だから学ぶ意欲も非常に高い。

この事実に気づいてから、やるべきことが明確になっていく。

COFFEE VALLEYとしても、関わってくれる「人」のためにも、チェックリストやマニュアルをしっかり作り込み、定期的に勉強会も開催。

こうして、ここで働く意味をきちんと理解してもらうことで、少しずつまとまりができていった。現在、長く働いてくれるスタッフが非常に多いことが確かな証拠だろう。

 

目的地と
なるために

COFFEE VALLEYの外観

そして8年経った最近、ようやく少しづつではあるが受け入れられ始めた実感がある。そう感じるようになった理由の1つは、珍しいコーヒー豆が売れ始めたことだ。

この事実だけで見ると小さな変化と感じるかもしれない。
だが、コーヒーの新たな魅力が広まっていくのは、スペシャルティコーヒー専門店として大きな変化である。

お店作りではコーヒーを主役にするという意味で、「シンプル」をテーマとした。店はあくまでコーヒーの引き立て役なのだ。だから余計なものは置かない。

そのアイデンティティはブランドロゴにも引き継がれている。

COFFEE VALLEYのCとVを使い、地図アプリの「ピン」をヒントにデザインされたロゴには、”みんなにとっての目的地となる場所でありたい”というシンプルな想いが込められているのだ。

 

10年先の姿

コーヒーの味を引き立てるCOFFEE VALLEYのシンプルな内装

COFFEE VALLEYは来店してくれるお客様に、「きっかけを与えられる場所」であり続けたいというコンセプトがある。

コーヒー好きじゃない人にも、新たな気づきを与えたい。だからこそ徹底的にコーヒーにこだわり、好みが見つかるような豊富なフレーバーを取り揃える。

これまでも、これからも小さな積み重ねを続け、「ピン」となるコーヒー屋であり続けること。

何かを大きく変えていくことはしない。

「10年先もかっこよくありたい」
立ち上げ当初から大切にしている言葉だ。

1人でも多くのお客様にコーヒーの魅力に気づいてもらうため、ひたすらにコーヒーと向き合い、日々の積み重ねと挑戦が10年後のかっこいいCOFFEE VALLEYにとっての「ピン」になっていく。

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地域コミュニティーの起点になる。 /roots/kaburaya-smile/ Fri, 09 Dec 2022 03:13:05 +0000 /corporate/?post_type=roots&p=110

 

プロローグ

少人数はもちろん、一人飲みが気楽にできる「かぶら屋」。

メニューは鮮度抜群の豚串、都内では珍しい黒おでん。

お一人様でもより多くの部位を楽しめるよう豚串は1本から注文できる。また、価格も80円からというのが財布にも優しい。

老若男女から好まれるメニューとあって、客層は様々だ。夕方早い時間は近所に住む年配の方が、大相撲を見ながら一杯のむ。夜は、近所に務めている20代〜60代の男女で賑わいを見せる。

幅広い層から支持されていることもあり、関東近郊に60店舗以上を展開、今後さらに出店を加速していく。

そんな「かぶら屋」には、一貫した軸がある。

売上や客単価などといったことではなく、”お客様はもちろん、働く人の笑顔も大切にする” 。そのために大事なのは、単に伝えるのではなく、しっかりと教えること。

「かぶら屋」が時間をかけてじっくりと育んできた成長の原動力のルーツと未来を紹介。

 

豚モツとの
出会い

かぶら屋の原点とも言える豚モツの写真

かぶら屋1号店は2002年にオープンした。

当時、「屯ちん」を3店舗展開するなかで、自家製豚骨スープやチャーシュー用の鮮度の高い原料を求め、時間をかけながら卸業者との付き合いを深めていた時期。

得意先の卸業者から豚モツの存在を知らされる。買い手がつかなければ卸業者は有料で破棄しなくてはならないため、破格の値段で卸してくれるという。

なんとなく魅力的とは思いながらも、ドンと見せられた豚モツを前にして何をどうすればいいのか分からなかった。

ロースやモモ肉と違い、豚モツは下処理が品質に大きく影響する。しかし下処理には、専門的な知識が必要となる。

そんなとき、見かねた卸業者の職人が、豚モツの扱い方を一から教えてくれることとなった。

なんと、毎日新鮮なモツを池袋の店舗まで車で2時間かけて運び込み、仕込みや串打ち、焼き方にいたるまでそのすべてを惜しみなく伝授してくれたのだ。

当時、モツと言えば薄暗いガード下で一杯飲みながら男性が一人、二人でつまみに飲むスタイルが主流。フーデックスでも30代の男性をターゲットに、メニュー構成や内装を考えていた。

そして多くの試行錯誤を経て、飲み物を片手に串を持ってさっと立ち飲みして帰れるオープンな店「かぶら屋」が誕生。

結果、多くの男性に受け入れられた。また、予想に反して仕事帰りの女性の心も掴むことができた。

さらに、当時の店を切り盛りしていた店長を中心にお店の雰囲気は明るく、誰でも気軽に立ち寄れそうな店構えも追い風になる。新鮮なモツを使った料理の味は格別、価格は良心的、またたく間にかぶら屋の噂は広まり、遠方から来店があるほどにぎわいを見せていった。

 

お客様への
想いに立ち返る

かぶら屋は初期から多店舗展開を行っている。

2010年には順調に店舗数を増やし、1年に3~4店舗のペースで展開、およそ20店舗を運営する規模へ拡大。店舗はフランチャイズではなく、個人独立制度を採用。かぶら屋という同じブランドをかかげるお店として、オーナーにはかぶら屋のあるべき姿を理解して運営していける人に任せたい、そんな想いがあったからに他ならない。

数年後、さらにかぶら屋は出店のペースを加速。そのスピードは1年に10~15店舗程度出していた時期もあった。

現場では、店長をどんどん育成しないとならない状況になってしまう。料理方法や運営ノウハウなど技術面を伝えることは比較的簡単でも、「かぶら屋とはどんなお店なのか?」というマインドの部分が全体的に浸透しにくくなっていた。

たとえば、かぶら屋の店長という肩書を持った人材を育成しても、本当にかぶら屋が1号店のオープン以降大切にしてきた、お客様への想いを共有できているのか分からない。

マインドを伝えることの難しさを痛感した時期を経て、やはりマインドは時間をかけてこそ浸透していくもの、時間をかけなければ浸透しないのだと考えに立ち返った。

 

想いの研修

想いの研修を通じた思いやりあふれる接客の様子

こうした経験をもとに、かぶら屋ではお店の想いを理解してもらい、かつスピード感をもって人材育成するためのしくみを構築。

それが今、「想いの研修」という名前で行っている初期教育である。

店長候補として入社すると、1週間に1回、13コマかけた座学がはじまる。内容はかぶら屋の事業理念やこだわり、衛生管理、店舗での人材育成の方法、発注業務といった店長業務すべて。

事業理念の部分では、お客様への想いも伝える。同じ串焼きを焼くのでも、お客様に「美味しい!」と思ってもらいたくて焼くのと、単なるオーダーとして焼くのとでは、仕上がりがちがう。初期教育では技術はもちろん、こうした想いの部分を大事に伝えていくようになった。

想いを伝えるという意味では、無事に店長になった後も、座学で学んだことが現場で活かされているか、実践できているか、かぶら屋のことを理解しているマネージャーが各店舗に行き、目で確認している。

お客様を迎える姿勢や接し方、提供している料理など。一番見ているのはかぶら屋の想いの部分。もし、実践できていなければ、座学が理解できていないということになる。

たとえば、お店の前にたばこの吸い殻が落ちていたら、それは単に掃除ができていないのではなく、かぶら屋の根本的な教えが理解できていないということ。マネージャーが各店舗をまわってチェックを行うことで、研修を単に伝える場所ではなく、きちんと「教える」場所になるように心がけている。

さらに、店長になっても継続して月に1回、専門の講師を入れて勉強会に参加。店舗を出して終わりではなく、時間をかけてこまめにお店を見て、自立自走できる形を運営側としてフォローすることを人材育成という意味でも重要視している。

また、フーデックスが多店舗展開で一番よくないケースだと考えているのが、一方通行になってしまうこと。

教える側であるマネージャーは、一方的に伝えるだけではなく、メニューや運営上のシステムなどの変更があれば、さまざまな意見を上手くまとめることも行っている。

一方、店舗が本部の言いなりになるのではなく、運営側と一緒にかぶら屋ブランドをつくる意識で、お互いに正しいことを言い合えるような関係づくりにもマネージャーは気を配っている。

 

お客様、働く人
の笑顔を大切に

かぶら屋では、お客様に笑顔になっていただくのはもちろん、スタッフが楽しんで働けることを大切にしている。

店舗をオープンして店長は年齢を重ねていったとしても、アルバイトで働く人は一定の年齢層。年々、世代間のギャップが生まれやすい状況になる。

しかし、世代に関係なく自分たちの考えていることを正しく相手に伝える、相手の考えを正しく理解することをそれぞれが意識するように働きかける。

それができているからこそ、かぶら屋が大切にする想いがスタッフ全体に浸透し、かぶら屋で働くことが楽しいと思ってもらえているのだと考えている。

 

地域への貢献

かぶら屋一号店のある池袋駅周辺の写真

かぶら屋には、地域のさまざまな世代が訪れている。

早い時間はご近所のおじいちゃん、おばあちゃんの姿があり、メインの時間になると仕事帰りの人たちや若者で賑わう。

そんなかぶら屋というブランドは、出店を加速することでさらなる地域貢献ができるとも考えてる。

料理やお店の雰囲気は流行りに乗らないスタイルのため長く続けられ、地域の人の雇用にもつながり、近所の皆さんに愛されるお店であれば、必ず地域がもっと活性化していく。

経済的な側面だけでなく、老若男女の笑顔が行き交う地域コミュニティーの起点として、今までもこれからも成長を目指している。

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